宮内庁式部職楽部 雅楽2012年欧州公演


EnglishEnglish   NederlandsNederlands

HOME > 雅楽とは

雅楽とは

この記事は、関係各位のご好意により「宮内庁楽部 雅楽の正統」(平成20年扶桑社)より転載させていただいております。なお、肩書き等は、すべて平成20年当時のものになっています。

雅楽とは何か…その歴史と荘厳なまでの精神性

お話/岩波 滋氏、上 明彦氏

― 雅楽とはいったいどういう音楽なのでしょうか。
古代の日本人が培ったオリジナルな音楽と、古代の日本に渡来したアジアの北から南までのさまざまな音楽が、混合して生み出されたものといえるでしょう。それが皇室の庇護があって、古代からほとんどかたちを変えずに連綿と続いてきているのです。1500年も前の音楽、しかも多くの種類にわたるたくさんの楽曲が、昔のままに今日も演奏できるというのは、世界でもわが国の雅楽しかないでしょう。しかも、そこにはしばしば舞も付いていて、その振付もまた伝承されているのです。これは大いに誇れることではないでしょうか。

― 日本における雅楽の起こりはいつなのでしょうか。
日本人本来の音楽は当然、神話の昔からあったでしょう。たとえばわれわれが今日、神楽歌として伝承している音楽は、その古いかたちを、よくとどめているはずです。

一方、外国より渡来した音楽のわが国における本格的演奏の最初は「日本書紀」に、第19代允恭天皇の崩御のおりと記されています。そのとき80人もの新羅の楽人が葬送の音楽を奏でたというのです。西暦にすると453年のことです。第29代欽明天皇の御代には百済の音楽が伝来し、第33代推古天皇の御代になると百済人によって音楽の講習所も開かれました。第40代天武天皇は六七五年に、楽人は子弟に歌唱や楽器の伎芸や舞の振付を伝えるようにと詔を発しておられますが、このあたりから音楽とそれに伴う舞踏を代々専門とする家々が現れてきたのではないでしょうか。そして、第42代文武天皇が刑部親王と藤原不比等に編纂させ、701年に制定された大宝律令によって、ついに朝廷内に雅楽寮が設置されました。これが今日の宮内庁楽部につながるおおもとの組織かと思います。

― 雅楽寮とはどのようなものだったのですか。
発足当時は、わが国古来の音楽を演奏する者が254人、唐から伝来した唐楽の担当が72人、高麗楽と百済楽と新羅楽から成る三韓楽にあたるのがやはり72人、その他総勢400人以上の大所帯でした。天平年間、西暦だと730年代には、この人数は半減させられますが、その分、質の向上がはかられたのでしょう。また、736年には、バラモン僧正という通称でも知られるインドの僧、菩提僊那と、ベトナムの僧、仏哲が渡来して、インドやベトナムの楽曲をわが国の楽人たちに伝授しました。これらは林邑楽と呼ばれました。それから同じ頃、渤海楽も伝わります。これは朝鮮半島の東北部からずっと海沿いに広がっていた渤海国の音楽ですね。

― 唐、三韓、インド、ベトナムに渤海ですか。アジアの響宴ですね。
そういう流れのたどり着く究極に、世紀のイベントとして催されたのが、聖武天皇、孝謙天皇が列席し、菩提僊那が導師を務めた、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏の開眼供養会だったのでしょう。そこでは5000人の僧侶による仏教声明と雅楽寮などの楽人たちによるアジア中の音楽がまる1日、鳴り渡り続け、豪奢な踊りも付きました。

しかしこのあと、時代の風向きが変わっていきます。794年に都は奈良から京都へ遷り、やがて遣唐使も廃止されます。奈良時代までたっぷり吸収されてきた外国の制度や文化が日本的に変容させられ熟成してゆく時期が訪れるんですね。今日、日本伝統の美意識と呼ばれるものの土台のかなりが、文学にしても建築にしても絵画にしても、この平安時代に固まっていったと思います。

そして雅楽もその例外ではありませんでした。唐楽や三韓楽などは、奈良時代までは外国でのオリジナルほとんどそのままに演奏されていたでしょう。しかしそうした音楽には、日本人にとってなじみにくい要素も必ずあったはずなのです。日本人は器楽より歌と声の民族であり、日本語の抑揚やリズムや間合いと結びついた独特の音感を持っています。その音感に合うように曲を変え、楽器をいじり、どうしても合わない曲や楽器は絶やしてしまい、一方、日本人が新たに雅楽のための曲を作る…。平安時代を通して、そういう作業が行われていきました。

それには、奈良時代までは主に儀式・典礼の音楽であった雅楽が、平安時代に皇族・貴族の教養とたしなみの音楽に変質したことも、大きくものをいったと思います。日々親しむ音楽を自らの感性の丈に合わせて変えてゆくのは、とても自然なことでしょう。

このようにして、平安時代に日本化され、できあがっていった雅楽が、以後およそ1000年、それからはあまりかたちを変えることもなく、現在まで生き続けてきたのです。

― 奈良時代までにわが国に伝来した古代のアジア諸地域の音楽は、今も現地に面影をとどめているのでしょうか。
それは絶えたり、すっかり変貌してしまったりして、もはやほとんど残っていないといってもよいでしょう。

そういえば、韓国にも雅楽という名の音楽がありますが、故高円宮殿下は韓国国楽院の雅楽と宮内庁楽部の雅楽を聴き比べて、両者にあまりに共通点が見当たらず驚いたと述べられています。韓国の雅楽は中国の儒教音楽を取り入れ、それを韓国流に変容させたものと思います。韓国と中国では孔子廟で演奏される儒教音楽を雅楽と呼んでいるのです。

しかしわが国は奈良時代まで、あれほど外来文化の輸入に熱心だったのに、仏教を重んじていたせいか、儒教音楽としての雅楽は受容しませんでした。もっと世俗的な部類の音楽だけを取り入れたのです。遣唐使の吉備真備が8世紀に儒教音楽も奈良の都に持ち帰ったという説もありますが、定かではありませんし、現在伝わるわが国の雅楽にその痕跡は認められません。

さらにいうと、現在の韓国の雅楽のもととなっている音楽が、中国から韓国に伝わったのは、わが国に唐や三韓の音楽が入ってきた時代よりも下るのではないでしょうか。韓国と日本の雅楽が似ていない理由は、そのあたりにあるのでしょう。ちなみに中国の儒教音楽としての雅楽も、昔のものはきちんとは伝承されていません。

― わが国の雅楽は、平安の昔からいったい何曲ほどを、今に伝えているのでしょうか。
歌の入らない楽器だけの曲については、明治維新のあとに大規模な楽譜の整理が行われ、88曲あるということになりました。とはいえ、その中にはいくつもの曲がセットになった組曲形式の大曲もあり、それをばらして数えればまた変わってきますし、その他にも種々問題があり、約100曲としておくのが妥当かと思います。歌を加えますと、百数十曲といったところでしょう。

― それらの分類はどうなりますか。
分類方法には2通りあります。

ひとつは曲の出自で分けるやり方ですね。これでいきますと、大きく次の3つのグループを設定できます。

第1は国風歌舞。唐楽や三韓楽が渡来する以前から、わが国固有のものとして伝えられてきた歌謡のことで、神楽、東遊、久米舞、大和歌、誄歌などがここに含まれます。もっともたとえば雅楽歌と簡単にいっても、それは全曲演奏するのに6時間もかかる長大な組歌でして、宮中の賢所や皇霊殿の御前で、観客のためではなく、天照大御神や歴代天皇の御霊をお慰めし、また、国民の安寧と五穀豊穣をお祈りするために演奏されるのです。

第2は外来の音楽で、これはさきほどから話に出ております唐楽、三韓楽などのことなのですが、それらは平安時代に日本化されて、結局、左方と右方の2系統に分けられました。前者には唐楽や林邑楽、後者には三韓楽や渤海楽が含まれ、前者は唐楽も林邑楽もひっくるめて唐楽、後者も同じくみんな合わせて高麗楽と呼びます。もっと唐楽とか高麗楽とかいっても、何度もいいますように、それはすでに日本的に濾過され変容したものですから、奈良時代までのような唐楽本来、高麗楽本来のかたちとはもはや相当に違うものになっているわけです。なお、平安時代に日本人が唐楽風、高麗楽風に新たに作った雅楽曲もこのグループに入れるのが慣例になっています。

第3は歌物です。すなわち平安時代に日本で作曲された歌曲のことをいい、民謡風の歌詞による催馬楽と漢詩による朗詠の2つに分かれます。

― すると、もうひとつの分類法というのは?
編成によるものです。つまり、舞を伴わぬ楽器演奏だけの管絃、舞を伴う舞楽、歌の入る歌物の3グループに分けるのです。

こちらの分類でいくと、左方の唐楽には管絃の曲と舞楽の曲が両方あり、右方の高麗楽は現在は舞楽だけですので、よって先の分類ではともに第2グループだった左方と右方が、こちらの分類では第1と第2のグループに線引きされることとなります。また先の分類の第1と第3のグループはともに歌ですから、こちらの分類ではどちらも一緒に第3のグループに入ることになります。

― ところで、雅楽は宮内庁楽部のみでなく、寺社やその他もろもろの民間の演奏団体でも伝承されていますが、両者のあいだに違いがあるとすれば、それは何でしょうか。
楽部の演奏には、やはりそれなりの伎芸の洗練があると思うのです。確かに四天王寺などにも1000年以上の雅楽の伝統があり、それはすばらしいものです。しかしその雅楽は、基本的には屋外での長時間の典礼によりそうためのものでずっとあり続けています。野趣に富んで魅力的ですが、コンサートホールで雅楽の音だけに聞き耳をたてるとなると、ちょっと違ってくるでしょう。

一方、われわれは、年に春秋二回の皇居内楽部での定期演奏会、国立劇場やその他のホールでの特別演奏会、あるいは国賓歓迎の奏楽など、雅楽だけ、音楽だけを、聞き耳をたてられる状況の中でやらなくてはなりません。そういうところで、音の細部を磨く訓練を積み重ねてきているのです。もちろん、そのどちらがいいという問題ではありませんけれども。

すると、単に宮内庁楽部は、プロフェッショナルに技術ばかり追求している集団かとみなされそうですが、演奏のうまさだけを問うなら、最近は在野でも東京あたりには非常にレベルの高い団体があるのです。しかし楽部はそういう団体ともやはり異なるんですね。

では、どこが違うかというと、結局、精神性に尽きると思うのです。われわれは古代から皇室の儀礼とともに在続してきています。コンサートホールで演奏する一方で、観客の誰もいないところで、千年以上も昔から、隔年か毎年かで繰り返されているような儀礼に参加し、国民の安寧と五穀豊穣を祈るために演奏しているのです。と、そうした儀礼の場で、精神的に深い音楽的体験を得ることがあるわけです。

そんな体験の積み重ねが音楽家としてのわれわれを成長させてくれるし、そこから皇室とともにある音楽としての雅楽を奏するのは、皇室のおそばにあるわれわれでないと無理だという信念も生まれます。精神に染みこんでくる荘厳な力に支えられて、われわれは奏し、舞っているのです。


岩波 滋
昭和16年生まれ。昭和38年、楽師となる。担当楽器は笙。平成15~18年、首席楽長を務めた。日本大学芸術学部講師。雑誌「教育音楽」(音楽之友社)に「日本の伝統楽器に親しもう」を37回にわたって執筆した。


上 明彦
昭和16年生まれ。奈良方楽人の家である上家の伝統を継ぐ。昭和39年に楽師となる。担当楽器は笛。平成18~19年、首席楽長を務めた。