宮内庁式部職楽部 雅楽2012年欧州公演


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雅楽の歴史

雅楽の伝来
「雅楽」とは、元来は儒教における「俗楽」対する言葉で、「正統の音楽」を意味していました。この意味で雅楽と呼ばれる音楽は中国や朝鮮にもありましたが、それは儒教の祭祀楽を主とするものであり、日本の雅楽とは別のものです。

日本の雅楽は、古くから伝わるわが国固有の歌舞と、5世紀頃より古代のアジア大陸から伝来した楽器と楽舞とが日本化したもの、そしてその影響を受けて新しくできた歌の総体で、10世紀(平安時代)に大成した、日本の最も古い古典音楽です。

日本に伝来した最初のものは、「三韓楽」(「三国楽」と呼ばれた百済、新羅、高句麗(高麗)の朝鮮半島由来の舞と楽曲です。日本における最も古い記録は、允恭天皇が崩御された折(453年)に、新羅王が楽人80人を送って哀悼の意を表したという「日本書紀」における記述で、欽明天皇15年(554)2月には、百済から楽人4人が渡来したとの記録もあります。天武天皇12年(683)正月には、高麗、百済、新羅の「三国楽」が飛鳥の地で演奏されています。三韓楽は当初は朝鮮半島の各国の特色をとどめていましたが、その後、徐々にその特色が薄れ、平安時代には中国大陸の音楽である唐楽に対しての朝鮮半島の舞曲としてまとまっていき、後には高麗楽に一括されていきました。やがて高麗楽は平安時代中期に規定が確立し渤海国の楽舞も含むようになりました。天平勝宝元年(749)12月には東大寺で渤海楽が演奏されたという記録も見られます。

一方、中国大陸の音楽である唐楽は、7世紀前半から約200年にわたって行われた遣唐使の派遣を通じてわが国にもたらされました(初めての遣唐使は舒明天皇2年(630)の犬上御田鍬)。唐楽とはいうものの、その実際の中身は、当時は唐の都・長安が国際都市であったことを反映し、ペルシアやインド起源の楽舞、ベトナムの音楽である林邑楽なども含んでいます。唐楽は三韓楽よりも高度に発達した音楽倫理体系を有しており、吉備真備は天平7年(735)に持ち帰った「楽書要録」は、その後の雅楽の理論に大きな影響を与えたといわれています。ちなみに日本における唐楽の演奏記録の最も古いものは、大宝2年(702)正月に、藤原宮での「五常太平楽」の演奏です(「続日本記」)。また、天平勝宝4年(752)に行われた東大寺大仏開眼供養会では、林邑楽の「抜頭」「菩薩」「陪臚」が奏されています。

宮内庁が管理・研究を進めている東大寺の正倉院23種、100余点にのぼる楽器が収められていますが、当時の楽器は現在の雅楽で用いられているものよりも多彩であることから、奈良時代の雅楽の響きは、今日、私たちが耳にする音色とはかなり異なると考えられています。

雅楽寮の設置
以上のように、日本には中国大陸や朝鮮半島からの楽曲が5世紀頃より伝来していましたが、それらの楽舞を公的なものとして管理伝習していく機関として、文武天皇の大宝元年(701)、治部省に雅楽寮が設置されました。大宝律令が制定されたのにあわせてのことでした。雅楽寮は事務方をのぞいて総勢400人以上にもおよぶ大組織でしたが、これは、唐楽、高麗楽、新羅楽と、それぞれ用いられる楽器も旋律や調子も異なっている曲を奏するために専門の奏者が必要だったからだと考えられます。また、現在の宮内庁楽部には女性楽師はいませんが、奈良・平安時代においては、女楽をつかさどる内教房という機関があり、女性も朝廷儀式の奏楽を担当していました。

嵯峨天皇の弘仁12年(821)の「内裏式」において、雅楽は宮中の年中行事に不可欠なものとされており、古代中国の思想に基づいて、朝廷様式のほかにも季節の変わり目に行われる宴や、四季の移り変わりを楽しむためなどに奏されるものでした。10世紀に編纂された「延喜式」によれば、雅楽寮では、節会(季節の変わり目である節日に行われた宴。元旦節会、白馬節会、端午節会など)、年始の大餐、相撲、競馬などの朝廷の年中行事、仏会、天皇の行幸、諸祭などにおいて奏されていました。

こうして、雅楽を管理伝習する制度が整い、奏する機会が増えるにつれ、半世紀から1世紀ほどの時間をかけて雅楽の日本化が進んでいきました。

楽所
雅楽寮以外にも、雅楽にかかわった機関があります。なかでも大同2年(807)に成立した左右の近衛府と、和琴を伴奏として朝廷儀式に用いられる「大歌」を司る機関として設置された「大歌所」は、雅楽に深いかかわりを持つこととなります。近衛府の官人が雅楽を奏するようになったことから、村上天皇の天暦2年(948)には朝廷儀式の奏楽にかかわる楽所が内裏の桂芳坊に置かれ、これ以降、雅楽を管理伝習する中心機関は、雅楽寮から楽所へと移っていきました、楽所は明治初年まで存続しました。

また、平安時代以降には、内裏だけでなく、神事や法会の際に雅楽を演奏する必要のあった南都(奈良)の諸寺院や天王寺(大阪)などでも楽所が置かれるようになり、この楽所に所属した楽人たちが父から子へと芸を伝えていったことから、やがて「楽家」と呼ばれる雅楽の家が生まれることとなりました。

楽家の成立
平安時代後期に成立した楽家では、家ごとに笙、横笛、篳篥などの専門が定まっていました。また、家によって左舞、右舞のどちらを舞うかも決まっていました。

左舞を代々受け継いだのは狛氏で、南都の興福寺を本拠地としており、この狛氏からは後に上、西、辻、芝、奥、東、窪、久保の八家に分かれ、それぞれ名手を輩出しました。狛氏はまた管の家でもありました。右舞の伝承の中心となったのは多氏です。多氏は当初は神楽歌、人長、舞を伝えたが、一条天皇(986~1011)の頃に右舞の家となりました。(左舞の「胡飲酒」「採桑老」は家の舞として継いだ。)そのほか、横笛の大神氏、戸部氏、篳篥の安倍氏、笙の豊原氏など、楽器の技を伝えた家もありました。

ちなみに雅楽には、三大楽書と呼ばれ、雅楽の歴史や思想、演奏などを研究する上で不可欠の重要な書物がありますが、「教訓抄」は狛近真(1177~1242)『體源抄』(全13巻)は豊原統秋(1450~1524)、『楽家録』(前50巻)は安倍季尚(1622~1708)の手によるものです。

絃楽器の琵琶や箏、催馬楽などの歌物は、江戸時代までは伏見宮家、西園寺家、室町家、綾小路家など、上流貴族が受け継いでいきました。

三方楽所と紅葉山楽人
その後、公家階級にかわって武士階級が台頭してきた時代も、平清盛は広島の厳島神社に舞楽をもたらし、源頼朝もまた鎌倉の鶴岡八幡宮に楽所をもうけるなど、平家、源氏ともに雅楽を保護したため、都の雅楽は西国や東国へと広がりを見せることとなりました。

ところが、15世紀に勃発した応仁の乱(1467~1477)によって雅楽は衰退を余儀なくされてしまいました。都が戦場となったため、朝廷儀式が衰え、楽人が散り散になってしまったのです。

応仁の乱終結後、雅楽の復興を目指す動きが始まりました。正親町天皇が天正年間(1573~1592)に天王寺の楽人5人を都に召したのを皮切りに、文禄年間(1592~1596)には後陽成天皇が南都の楽人3人を召して、京都(朝廷)の雅楽を復興していったのです。武家もまた雅楽保護を打ち出しました。天正16年(1588)には、豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いて5日間におよぶ盛大な響宴を催し、京都、南都(奈良)、天王寺の楽人合同での雅楽の演奏会を開きました。こうして、京都、南都、天王寺からなる三方楽所が整えられていきました。三方楽所はその後も雅楽の技を伝え続けていきました。

それぞれの楽家を挙げると、京都楽所の楽人の家としては多氏、豊原(豊)氏、大神(山井)氏などで、京都の楽人は主に宮中行事の際に演奏に従事していました。

南都楽所には左方として上氏、辻氏、芝氏、奥氏、窪氏、久保氏などが、右方として中氏、喜多氏、西京氏、井上氏などがありました。南都の楽人は奈良の社寺での演奏や宮中の行事に奉仕しました。

天王寺楽所には薗 氏、林氏、東儀氏、岡氏がありました。天王寺楽所は京都、奈良の楽人とは異なり、宮中の行事に加わりませんでしたが、応仁の乱以降の都での雅楽衰退期にも、その伎芸を伝えてきました。正親町天皇が天正年間に天王寺楽人5人を召したのも、この理由によります。

江戸時代には、三方楽所から下向した楽人が江戸に常駐し、江戸城内紅葉山の家康廟に勤仕したり、日光東照宮の祭礼や外国の使臣の餐応などに従事したりしました。江戸に常駐した楽人は紅葉山楽人と呼ばれています。諸大名や武家のたしなんだ芸能の筆頭は、武家の式楽として採用された能楽でありましたが、雅楽もまた江戸時代を通じて、大名をはじめ武家の間に広がり、愛好者の層は神職、僧侶、町人、農民にまでわたっていきました。

明治維新により、明治天皇が東京へと遷られたのに伴い、雅楽の世界にも大きな変化がおきました。東京で奏するため、三方楽所にかわり、明治3年、太政官の中にあらたに「雅楽局」は設置されたのです。

この雅楽局が現在の宮内庁式部職楽部へと繋がることとなりますが、雅楽局の設置に際し、三方楽所と紅葉山楽人は一堂に集められ、それぞれが独自に伝承してきた楽曲や奏法などを統一する必要に迫られました。その結果、「明治撰定譜」と呼ばれる楽譜集が編纂されました。宮内庁楽部の伝承は、原則としてすべてこの「明治撰定譜」に基づいています。神楽や催馬楽、朗詠など、室町家や綾小路家などの公家が伝えてきたものも、雅楽局へと移されました。

明治まで、雅楽は主として宮廷、貴族社会、有力社寺などで演奏されてきましたが、現在では宮内庁楽部が伝承する雅楽が基準となっているのは、これらの経緯によります。

雅楽が雅楽局によって伝承されることになった結果、楽家の出身のみならず、一般人にも雅楽の伝習が認められ、宮廷の楽師となる道が開かれることになりました。楽家出身ではない初の楽師の誕生は、明治7年(1875)の堀川久民氏です。現在では、定員26人の楽師のうち、約半数は楽家以外の出身です。

また、雅楽局では、雅楽だけではなく、西洋音楽もあわせて伝習することになりました。明治7年には海軍軍楽隊隊長の中村祐庸氏に、明治8年からは英国人、ジョン・ウイリアム。フェントン(英国公使館護衛官兼軍楽長)について西洋音楽を学び始めました。明治9年の天長節の祝宴では、その練習の成果として西洋音楽を奏しています。日本のクラシック音楽の黎明期には、雅楽の楽人たちが大きな役割を果たしているのです。現在でも、宮中晩餐会などで、楽部の楽師はさまざまな西洋音楽を演奏しています。

雅楽局はいくたびかの名称の変更を経て、昭和24年(1949)に宮内庁式部職楽部となりました。現在の店員は26名で、楽師を目指すものは、小学校あるいは中学校卒業後に7~6年間におよぶ楽生の期間を経ることになっています。楽生はそれぞれ、3管(笙、篳篥、笛)のうちいずれかひとつ、両絃(琵琶、箏)のどちらか、左右どちらかの舞、西洋楽器ひとつを専門としなければならない。打ちもの、歌、和琴は全員が学びます。

昭和30年(1955)には国の重要無形文化財に指定され、楽部の楽師全員が重要無形文化財保持者に認定されています。宮中におけるさまざまな祭祀や儀式に加え、毎年春秋の2回、皇居内の楽部で公開演奏会を開催しているほか、近年では国立劇場や地方での公演、さらには海外公演なども行っています。

宮内庁楽部と儀式
701年(大宝元年)に治部省のなかに雅楽寮が設けられて以来、雅楽は宮中の重要な儀式や年中行事に欠かせないものとして継承されてきました。752年4月9日、聖武太上天皇をはじめ、光明皇太后、孝謙天皇が行幸して執り行われた東大寺盧遮那仏の開眼供養会で最大規模の演奏会が行われたことは有名ですが、その後、宮廷の行事が整備されたのに伴って、平安時代中期には四季折々の年中行事の際に演奏されるようになりました。例を挙げてみれば、元旦の「元旦節会」の際には、庭などに立ち並び、「春庭花」「胡飲酒破」「酒胡子」などが、1月7日に天皇が左右馬寮の「白馬」をご覧になる「白馬節会」では「萬歳楽」「喜春楽」などが奏されていたという具合です。

こうして宮廷芸能として平安時代に大成された雅楽ですが、応仁の乱で壊滅的な被害を蒙ってしまいます。しかし、乱世が終わり、世上が落ち着くにつれ、正親町天皇をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの擁護によって次第に復興されました。

明治になり、明治天皇が東京に遷られたことにより、太政官の中に雅楽局が設置されました。雅楽局では、それまでの楽所とは異なり、楽家出身以外の一般の人にも楽師となる門戸を開いたほか、雅楽のみならず洋楽もあわせて演奏することとなりました。この制度は、現在の宮内庁式部職楽部へと繋がっています。

雅楽寮の時代より、宮中の重要儀式の際に演奏されてきた雅楽。宮内庁楽部ではその伝統を受け継ぎ、現在も皇室および宮内庁のさまざまな儀式や諸行事において演奏されています。

昭和天皇の大喪儀の際には、「誄歌」が楽部楽師によって歌われました。誄歌は皇室の葬儀の際に歌われる声楽曲ですが、現状のものは、明治天皇の大喪儀の際に宮内省楽部の楽師によって復興されたもので、大正天皇の大喪儀にも歌われました。歌詞は「古事記」の「倭建命薨去の条」からとられたものです。

世界各国から賓客を招いて盛大に執り行われた今上天皇の即位礼と大嘗祭においても、楽部は重要な役割を果たしました。さらに、20年に1度の伊勢の神宮の式年遷宮に際しても御神楽ならびに秘曲の奉納があり、また毎年恒例の新嘗祭や、歴代天皇の例祭における神楽歌の演奏など、日本古来の国風歌舞は大切な祭祀の音楽とされています。それ以外にも、元旦の歳旦祭(早朝に皇居・宮中三殿で行われる年始の祭典)、二日祭、そして1月3日には三日祭と元始祭(天皇陛下が年始に当たり、国家国民の繁栄を三殿で祈られる祭典)などの毎年の宮中祭祀には、唐楽が祭祀音楽として演奏され、さらには国賓のための宮中晩餐会などでは、雅楽のみならず、洋楽のオーケストラ演奏も行っています。

宮内庁では、実際に演奏活動を行う楽部以外にも、書陵部が貴重な楽譜や楽書類を保管しているほか、雅楽をテーマにした絵画や工芸・彫刻、楽器などを三の丸尚蔵館が保管しています。